土佐藩
-
現在は京大キャンパスに!陸援隊跡地
中岡慎太郎が隊長となり、倒幕のための武力結社の本部としたのは、白川の土佐藩邸でした。現在その場所は、京都大学の北部構内の敷地になっています。150年前に幕府を倒すための集団がこの地で日々訓練していたなんて、今では想像もできない風景ですね^^
-
龍馬と慎太郎最期の場所「近江屋」
慶応3(1867)年11月15日、龍馬と中岡慎太郎は、刺客に襲われ天に召されました。わずか1ヵ月前に大政奉還され、ようやくこれから新しい日本をつくっていこうという矢先に・・・その場所「近江屋」の跡地は、京都一の繁華街、河原町通りにひっそりと石碑が立っています。
-
京の「武市半平太(瑞山)」仮住まい石碑
土佐時代からの龍馬の盟友、武市半平太。お互いをあだ名で呼び合うほどの仲でした。半平太は、一時は一藩勤王へ導くことに成功し京で活躍していましたが、山内容堂により土佐へ戻され最後には切腹させられました。今回は京都での半平太に関する史跡めぐりです。
-
河原町高瀬川べりにある土佐藩邸跡
京都河原町の高瀬川沿いに、土佐藩邸跡の石碑があります。龍馬は脱藩している期間が長かったため、ほとんど土佐藩邸に行くことはなかっただろうと思いますが、一度だけ、龍馬が1回目の脱藩を許されたときに7日間、土佐藩邸で謹慎させられているんですね^^
-
尊王攘夷の急先鋒、京都の「吉村寅太郎」
土佐藩士のなかで誰よりも早く脱藩し、薩摩藩士による寺田屋事件の場にも居り、天誅組を結成するなど、尊王攘夷の志士として信念のもと動いた吉村寅太郎。でも倒幕の機はまだ熟すところまでいっておらず、27歳という若さで幕府側の大軍と戦い戦死。
-
武力討幕派の志士、陸援隊隊長「中岡慎太郎」
-
龍馬と海援隊の京の拠点「酢屋」