五代友厚(ごだいともあつ)は、NHKの朝ドラで一躍有名になりましたね。
龍馬とのかかわりは、海援隊の「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」が衝突した事件で、最終的に紀州藩から頼まれて仲介の労をとり、紀州藩は龍馬側に多額の賠償金を払っています。
もともと五代友厚は、薩摩藩士で天保6年(1836)12月に鹿児島で生まれ、大阪で育ったわけでもないんですが、明治以降は大阪の経済発展に尽くした人です。
お墓も大阪にあるんですよ^^
今回は、五代友厚の大阪の銅像と大阪での住居そしてお墓をご紹介します。
大阪市内の銅像3カ所
大阪取引所(大阪市中央区北浜1-8-16)
大阪市中央区北浜の交差点の南東角にある大阪取引所の前に立派な銅像があります。
五代友厚は、今の大阪取引所の前身になる大阪株式取引所の発起人となって設立に尽力した等近代大阪への経済発展への貢献の功績をたたえられ、銅像が設立されたそうです。
大阪商工会議所(大阪市中央区本町橋2-8)
大阪商工会議所入口から見て左側、若宮商工稲荷神社に向かう石段の下にに初代会頭の五代友厚、第7代会頭の土井通夫(どいみちお)、第10代会頭の稲畑勝太郎(いなばたかつたろう)の3名の銅像があります。
大阪商工会議所には銅像以外にも、大阪西奉行所跡の石碑や、龍馬が夢枕に現れたと言われている昭憲皇太后行啓の記念碑があります。
大阪市立大学(大阪市住吉区杉本3-3-138)
大阪市立大学の本館キャンパスの商学部棟と文学部棟の間に五代友厚の銅像がありました。
見学に行ったのは休日でしたが、守衛さんも親切に場所を教えて下さり、いろいろな方が見学に来るためか、銅像設置場所の案内図もいただきました^^
大阪市立大学の前身である大阪商業講習所の創設にも関わっていて、経済発展だけではなく教育にも力を注いでいたんですね。
大阪の住居跡地
現:大阪科学技術センタービル(大阪市西区靭本町1-8-4)
明治4年(1871)に居を構えました。。
同じ薩摩藩出身の大久保利通(おおくぼとしみち)も宿泊したそうですよ^^
現:日本銀行大阪支店旧館(大阪市北区中之島2-1-45)
明治18年(1885)に家を新築しました。
江戸時代、この場所は島原藩の蔵屋敷があったそうです。
五代友厚のお墓
大阪市設南霊園阿倍野墓地(大阪市阿倍野区阿倍野筋4-19)
五代友厚は、明治18年(1885)49才という若さで糖尿病で無くなりました。
お墓は故郷の鹿児島ではなく大阪にあるのというのにまず驚きました。
しかも、どこか立派なお寺にでもあるのかと思いましたが、公設の墓地のあるとはそれにもびっくり^^
亡くなったのは東京築地の別邸でしたが、遺言により大阪で永遠の眠りについているんですね。
大阪での葬儀の際は4千数百名の弔問客が訪れたということで、人望の厚さがわかりますね!
阿倍野墓地の中では、お墓の後ろに木も茂っていてひときわ大きな立派なものです。
真ん中辺りの奥のほうに行ったところにありました。(たぶん4区だと思います。はっきりせずすみませんm(__)m)
他の方のブログなどでは見つけやすいと書かれていましたが、私は探すのに苦労しました^^;
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