田中光顕(たなかみつあき)は、
土佐出身の幕末の勤王志士、明治維新後は政治家で、
約11年間もの間、長く宮内大臣を務めた人ですね。
田中光顕写真
(幕末と明治の博物館HPから引用)
そして昭和の時代まで生き、
95歳という長命でこの世を去りました。
政界を引退した後は、武市半平太の遺族の面倒を見たり、
幕末の志士たちの功績をたたえることに力を注いだようです。
茨城県にある「幕末と明治の博物館」や
東京都の「旧多摩聖蹟記念館」などの建設に携わり、
収集した志士たちの遺品などを寄贈したりしたんですね。
有名な高知の桂浜にある龍馬の銅像を建てるときにも
昭和天皇の弟の秩父宮殿下から御下賜金をいただいたりと
尽力したそうですよ^^
武市半平太に師事
光顕は、武市半平太(たけちはんぺいた)を尊敬して
教えを受け、その尊王攘夷運動に参加し、
土佐勤王党の一員にもなっています。
同じ土佐勤王党で土佐藩家老の吉田東洋を暗殺した、
那須信吾(なすしんご)は、
光顕の叔父にあたるんです。
「龍馬がゆく」では、信吾らが東洋を暗殺したあと、
信吾の命令で、現場に東洋が亡くなっているのを確かめてから、
東洋によって退けられた深尾鼎(ふかおかなえ)に
報告に行ったと書かれていますね。
また一説では、光顕自身も東洋暗殺に
かかわっていたともいわれています。
ぜんざい屋事件
ぜんざい屋事件石碑
当サイト大阪市中央区史跡マップ⑦番の位置 MAPはこちら>>
半平太ら土佐勤王党の志士たち尊王攘夷派が牢獄に入れられ、
光顕も謹慎処分となりました。
そして土佐藩に見切りをつけ、元治元(1864)年8月、
光顕は脱藩して、いったんは長州(現:山口)へ行きました。
その後、土佐浪士たちと大坂に隠れて住んでいました。
そこで第一次長州征伐のために大坂に来る幕府軍を
混乱させるために、大利鼎吉(おおりていきち)らと
大坂市街に火を放って、大坂城を乗っ取るという
計画を立てたんですよね。
でも、その計画は新選組に漏れてしまって、
大坂の隠れ家のぜんざい屋は襲撃されてしまいました。
そのとき光顕は不在だったので、助かりましたが、
そのまま大和(現:奈良)の十津川へ逃げそこで隠れたんですね。
中岡慎太郎とのかかわり
左側:陸援隊跡地 右側:中岡慎太郎
左側:当サイト左京区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>
光顕は、十津川から京へ戻ると、
中岡慎太郎とともに薩長同盟を結ばせるために
長州へ行ったりと貢献しました。
そして、脱藩の罪が赦された後
中岡慎太郎が隊長となった陸援隊の副隊長になって
京都の白川にある陸援隊本部で、
慎太郎を助けていたんですね。
龍馬・慎太郎暗殺後
龍馬・中岡慎太郎暗殺跡地
当サイト中京区史跡マップ②番の位置 MAPはこちら>>
慶応3(1867)年11月15日に、京都河原町の近江屋で、
龍馬と慎太郎が何者かに殺害されました。
当時龍馬のおつかいで軍鶏を買いに行っていた
近くの書店、菊屋の息子の峰吉が買い物から戻ってくると
龍馬らは斬られたあとで、峰吉はすぐに
白川の陸援隊本部へ連絡にいったんですね。
そして光顕はすぐに近江屋に駆けつけて、医者を呼び、
まだ息のあった慎太郎から当時の状況を聞いたそうです。
でも、結局龍馬と慎太郎を殺害したのは誰かは、
今でもはっきりとはわかっていないんですよね。
昭憲皇太后と龍馬
左側 龍馬の墓横の田中光顕による碑
左側当サイト東山区史跡マップ④番の位置 MAPはこちら>>
右側当サイト大阪市中央区史跡マップ⑤番の位置 MAPはこちら>>ただし、文中とは直接関係ありません
幕末から明治維新を経て、だんだんと龍馬のことは
多くの人たちの記憶から消えていきました。
明治37(1904)年2月のある晩、
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の夢枕に白衣の武士が立って、
「日露戦争の際、海軍のために力を尽くすから
勝敗については安心していてください。」
というようなことを言ったそうです。
宮内大臣だった光顕が龍馬の写真を送ると、
昭憲皇太后は、
「夢枕に立ったのはこの人物にまちがいない。」
とおっしゃったそうなんですよね。
この話が当時の新聞に取り上げられて、
にわかに龍馬は時の人なったんです^^
そして、その頃に京都霊山護国神社の
龍馬と慎太郎のお墓の横に、大きな碑ができたんですね。
まあ、明治の政権は、薩長両藩出身が多くを占めていて、
土佐系の人は少なかったんですね。
それで光顕ら土佐系の宮中関係の政治家が
話しをつくったのではないか、ともいわれていますね^^;
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