江戸時代、京の伏見と大坂(現:大阪)を結ぶための
重要な交通手段だった三十石船(さんじっこくぶね)は、
淀川を上り下りして人や荷物を運んでいたんです。
上の写真は、寺田屋に飾ってあったもので、
写真ではわかりづらいですが、
この船には寺田屋の旗が立てられていますね^^
三十石船は、夜伏見を出ると、翌早朝に大坂に着き、
大坂を朝早く出て夕方に着くのが通例だったそうです。
伏見から大坂へ下るのは、川の流れがあるので良いのですが、
大坂から伏見へは、流れに逆らうの流れの速いところなどは
船頭が岸に上がって、綱を引いて上ったといわれています。
大変な力仕事ですよね^^;
だから、運賃は上りの方が、下り運賃の2倍以上したようですよ^^
寺田屋外観
当サイト伏見区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>
伏見の船着き場は、平戸橋・蓬莱橋・京橋・阿波橋の
4か所あったそうです。
その中の京橋に、龍馬がよく利用し、
妻となったおりょうが龍馬のあっせんで
お登勢の養女扱いで居た、寺田屋があったんですね。
寺田屋の前には、寺田屋浜の石碑があります。
ここから、この記事の一番上にある写真の船が
大坂へ向かって出ていったんですねえ^^
龍馬が寺田屋で伏見奉行所の役人に襲われて
深い傷を負いながら逃げ出して、
薩摩藩に庇護されたのち、薩摩(現:鹿児島)へ養生に行くのに
いったん大坂へ向かう船もここから出たんでしょうか。
現在は川幅は幕末当時よりも半分くらいになっているそうです。
この川幅では、当時三十石船でにぎわった面影は
感じられませんね^^;
天満屋船着場石碑 当サイト大阪市中央区史跡マップ②③番の位置 MAPはこちら>>
大坂にも船着き場は、八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀と、
4か所あったようです。
その中の天満橋八軒家の船着き場の堺屋は、
寺田屋と提携していたので、
龍馬も大坂では、堺屋をよく利用していたようですね。
大川(旧:淀川)は、ゆったりとした流れでした。
伏見の宇治川派流もこんな広い川だったのかも
しれませんねえ^^
この絵は、安藤広重の天保5(1834)年頃に描かれた
「浪花名所図絵」です。
天満橋八軒屋浜で船から荷物や人が
乗り降りしている様子が描かれていますね^^
八軒家常夜燈(生國魂神社) 当サイト大阪市天王寺史跡マップ②番の位置 MAPはこちら>>
大阪の生國魂神社の北門にある一対の常夜燈は、
江戸時代八軒家浜にあったものを移したものなんです。
埋もれてしまっていますが、八軒家と書かれていました^^
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