龍馬を京都の伏見で支えた、寺田屋女将の『お登勢(おとせ)』の貴重な写真です。
先日、寺田屋に行ったときに撮影してきました。
お登勢は、『幕末の肝っ玉母さん!』というくらいにすごい女性。
龍馬は、寺田屋お登勢について故郷への手紙に
「故郷にある安田順蔵の家(龍馬の長姉千鶴の嫁ぎ先)
の家のような気持ちになる。
またあちら(寺田屋)もとても可愛がってくれる。」
という内容のものを書き送っています。
さらにお登勢のことを
「学問なる女、もっとも人物なり」
と評価していますね。
龍馬がお登勢のことを、京都の母のように慕い、
人物としても認め、心を許していたかわかりますよね^^
お登勢はとても世話好きの面倒見のいい人で、
何人もの捨て子を引き取って育てたそうです。
お登勢の次女が明治に入ってからお登勢のことを、
「世話好きで、物見遊山はおろか、
芝居一つ見にゆかない人でしたが、
ただ一つの道楽はひとの世話をすることでした。」
と言うほど面倒見のいい人だったんですね。
幕末の京都といえば、暗殺や辻斬りなどが横行していたし、
尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士は
幕府に睨まれていました。
そんな中お登勢は、龍馬だけでなく尊王攘夷派の志士を
献身的にかくまったり、面倒を見ていたそうです。
幕府からにらまれて牢に入れられそうになったこともあるほど!
龍馬が幕府の役人に襲われ、すきを見て逃げ出した際には、
お登勢は、奉行所に連れて行かれ、尋問を受けたときでも、
毅然とした態度で応対し、無事釈放されたそうなんです。
命の危険を感じる中で、彼女の生き方は男前すぎるっ^^
「もしも私がその時代に居たら、
お登勢と同じことができただろうか?」
「いやいや、絶対無理っ!」
「さわらぬ神にたたりなしで、知らん顔してしまいそう!」
それに、お登勢について知るほどに、
「私ってお登勢が亡くなった年齢を
とっくに超えているけど、まだまだ小さいなあ…」
って考えさせられます^^;
龍馬もお登勢には、相当心を許していたんでしょうね。
お登勢宛に送った手紙には、
江戸幕府の幕引きの橋渡しをしたヒーローとしてではなく、
泣き言や頼みごとが書かれていることが多かったそうです。
龍馬が歴史を動かしたすごい人としてでない、
人間味あふれる姿とそれを受け止める器の大きい
お登勢との関係が思い浮かびますよね^^
さらに龍馬は、「自分宛の手紙などは寺田屋に送ってほしい。」
と、故郷の乙女姉宛にもことづけたほど信頼していたようです。
何よりも、後に龍馬の命を救い妻となった、
父親が亡くなったために極貧状態の『おりょう』を、
お登勢に「面倒をみてやってほしい。」
とお願いするくらいです。
自分の一番大切な女性を預けるなんて、
龍馬とお登勢って、相当な信頼関係を築いていたんですねえ。
うらやましいっ^^
寺田屋の庭には、お登勢が龍馬とおりょうを結びつけたとして、
若い男女の守り神として祀られていました。
まさか、神様にまで昇格しているなんてびっくりです!
現在お登勢は、寺田屋から東側ふた筋目を北へ歩いて
15分くらいのところにある『松林院墓地』というところで眠っています。
最寄り駅は、京阪電車もしくは近鉄電車の「丹波橋」駅下車徒歩10分弱。
伏見中学校のところにある信号を南に折れて少し行った左側にあります。
京都市伏見区鷹匠町3にあります。
当サイト伏見区史跡マップ⑥番の位置 MAPはこちら>>
松林院墓地はすぐに見つけることができましたが、
写真のとおり入口がふさがれているので、
「入れないのかな?」と不安になりました。
でも大丈夫!
くぐり戸を開けて入ることができました^^
お登勢のお墓は、墓地内の真ん中あたりにあります。
お墓には、「寺田屋お登勢の墓」と書かれた立て札があるので、
すぐに見つかりますよ。
寺田屋の主、伊助のお墓よりもお登勢のお墓の方が立派なのは、
龍馬や薩摩藩士など、維新にかかわった志士たちを守り、
お世話をしたことで、『寺田屋と言えばお登勢』
と呼ばれるほどに名を残した功績なんでしょうか。
でも、お登勢本人は、まさか平成の世になっても
見知らぬ人たちがお墓参りをすることになるなんて、
想像もしてなかったでしょうね^^
(松林院墓地の斜め向かいには、龍馬の襲撃事件の4年前に起きた
薩摩藩士同士による寺田屋騒動の犠牲者たちが眠る大黒寺があります。)
お登勢ってどんな人?
文政12年(1829年)、もしくは天保2年(1831年)頃に
滋賀県大津の旅館を経営する大本重兵衛の次女として誕生。
弘化4年(1847年)に寺田屋の6代目伊助に嫁ぐ。
伊助は放蕩者で、しかも早くに亡くなってしまったため、
お登勢が寺田屋を切り盛り、評判も良かったといいます。
そして、尊王攘夷の志士たちをかくまい、
また元治元年夏ごろから、龍馬が定宿としてからは
龍馬だけでなくその妻となるおりょうの面倒までも見たそうです。
おりょうに対しては、龍馬が暗殺された後も気にかけて
手紙を送ったり、面倒を見たりしていたようです。
明治10年(1877年)9月7日に死去。享年48歳。
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