京都御所蛤御門 当サイト上京区史跡マップ③番の位置 MAPはこちら>>
文久3(1863)年の八月十八日の政変で京都を追われ、
長州(現:山口)に戻っていた長州藩士たち。
そして、元治元年7月19日、
ついに武力をもって長州藩主の冤罪をはらし、
さらに京(現:京都)の御所にいる孝明天皇を奪いとって、
長州へ連れて帰ろうとしたんです!
それが、日本史でも習ったはずの禁門の変です。
なぜ禁門の変を、蛤御門(はまぐりごもん)の変とも呼ぶかというと、
御所の門の中でも、この蛤御門での戦いが
一番壮絶で激しかったからなんですね。
長州軍の軍勢はたったの3,000人ほど。
幕府軍は総勢80,000人くらいいたそうです。
御所の堺御門や蛤御門で長州軍は戦いに挑みます。
特に蛤御門では、幕府軍相手に優勢だった長州軍でした。
「御所の中には、八月十八日の政変までは、
長州を信頼してくれていたはずの孝明天皇がいる!」
幕府軍を責め、蛤御門をなんとか突破!
「孝明天皇を奪い取るのに、あともう少し!!」
でもそこへ乾門にいた、西郷隆盛(さいごうたかもり)率いる
薩摩藩の応援軍が到着してしまったことで
戦況は長州に不利になっていったんです。
そしてとうとう、指揮官の来島又兵衛(きじままたべえ)や
久坂玄瑞(くさかげんずい)が死んでしまい、
長州藩軍は壊滅状態になりました。
激しい戦いではありましたが、1日で決着はついたようです。
長州藩邸跡
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御所の御門での戦いで幕府軍に負けた長州藩は、
朝敵として、京を追われる身になってしまいました。
そして京を出て長州へ逃げ落ちていくときに
自分たちで長州藩邸に、火をつけました。
長州藩邸を燃やした火と、堺町御門のあたりから出た火は、
京の街を燃やしつくすほどで3日間燃え続けたそうです。
この火は、見る見る間にどんどん焼け広がったことから
「どんどん焼き」と呼ばれたそうです。
現在の中京区・下京区辺りすべてが焼かれてしまい、
27,000世帯ほどの家が燃えてしまったそうなんです。
この火で、当時の東本願寺や本能寺などの
お寺も焼けてしまったんですね。
京都御所蛤御門の弾丸跡と説明 当サイト上京区史跡マップ③番の位置 MAPはこちら>>
門にはいくつもの弾痕のような凹みがありました。
一番激しい戦闘が繰り広げられたという蛤御門の、
長州軍と幕府軍の戦いの生々しさを残す証しですね。
でも、中には新しそうなものもあったので、
誰かがそれらしいものをつくったものもあるのかも^^;
私が見に行ったときは、平日だったにもかかわらず、
学生のサークルと思われる人たちや、
外国の方もこの門をじっくりと見ていました。
それだけ、歴史的にも大きな事件だったということですね^^
禁門の変の引き金となった池田屋事件
この戦いの発端のひとつとなったのが、
禁門の変の約1ヵ月前に起きた池田屋事件。
池田屋で京に潜伏している長州藩士や
土佐浪士たちが集まっているところへ
新選組が襲撃し、集まっていた志士達のほとんどが
捕らえられるか殺されるかしました。
それだけでなく、京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)から
新選組に池田屋事件を受け、報奨金まで出たんです。
八月十八日の政変で追い落とされたことで、
「いつか京を武力で奪い返し、藩主の汚名を晴らす!」
と狙っていた長州藩の過激派の藩士たちを桂小五郎(かつらこごろう)ら
穏健派はなんとか抑えていました。
でも、池田屋事件の報を受け、
「長州藩の名誉を傷つけられた!」
と憤った過激派をもう止めることはできませんでした。
そしてこの事件がきっかけとなって、禁門の変につながったんですね。
龍馬と禁門の変のかかわり
龍馬は一切禁門の変には関係していないませんが、
盟友の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は、
この戦いに参加し、負傷しています。
それだけでなく、数名の土佐浪士が長州側の立場で戦ってます。
龍馬が塾頭をしていた神戸海軍操練所の塾生が何人かが
この禁門の変に参加していたともいわれています。
池田屋事件では望月亀弥太(もちづきかめやた)が、
またこの禁門の変でも塾生がいたのではないかということで
このあと、神戸海軍操練所は閉鎖されてしまいます。
それだけでなく、龍馬の恩師でもある勝海舟は
江戸(現:東京)へ呼び戻され、軍艦奉行を辞めさせられてしまうんです。
龍馬にとって、自分は直接かかわっていないとしても
自分の配下の志士たちの行動が、勝海舟の立場を悪くしたことは、
謝っても謝りきれないほど、心苦しかったことでしょうね^^;
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