京都四条河原町の高瀬川沿いに、
土佐藩の京都藩邸の跡地があります。
龍馬は、京(現:京都)にいるときは、
ほぼ土佐藩を脱藩して浪士の状態だったので、
基本的には土佐藩邸に寄りつくことはなかったと思われます。
脱藩した人が、藩邸にのこのこ顔を出すってことは、
犯罪を犯した人間が警察に出向くのと同じで、
捕まって牢獄に入れられてしまいますもんね^^
江戸時代、自分の藩を許可なしに勝手に出るという脱藩は、
藩や藩主に対する裏切り行為とみなされて、
かなり重い罪になったようです。
その罪は、本人だけでなく、
親族にまで及ぶこともあったほどだそうです。
でも、実際は刑は軽いことが多かったようですが、
中には死罪になった人もいるそうなので、
脱藩の理由などで変わったのかもしれません。
龍馬は、文久2(1862)年3月に1回目の脱藩をしましたが、
勝海舟の根回しのおかげで、文久3(1863)年2月25日に
脱藩の罪が許されました。
そのときに龍馬は、罰として7日間、
この河原町の土佐藩邸で謹慎させられたんですね。
土佐藩邸跡地
当サイト中京区史跡マップ④番の位置 MAPはこちら>>
私が学生時代、明治維新の中心となった藩は
「薩長土肥」と歴史で習いましたが、
実際は、土佐藩が幕末で目立ったのは、
最後の最後、大政奉還の頃になってからです。
大政奉還の頃以前の土佐藩は、
老公の山内容堂(やまのうちようどう)のもと
佐幕派優勢になりました。
武市半平太ら土佐勤王党のメンバーは
投獄され、多くは拷問の末に亡くなり、
また半平太は切腹させられました。
半平太らが投獄されるよりもずっと前ですが、
龍馬は土佐藩に見切りをつけ、脱藩していきました。
その他多くの志士たちが脱藩しました。
薩長土肥の中でも、脱藩浪士が一番多い藩が
土佐藩なんです。
桂小五郎たちの長州藩、西郷隆盛らの薩摩藩のような
藩という後ろ盾がない中、命をかけて
ひとりひとりが、日本の未来のために駆け回ったんですね。
大政奉還を土佐藩がリードすることができたのも、
結局は、土佐藩の役人たちがすごかったのではなく、
龍馬や中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が、
薩摩藩や長州藩などを説得するなど活躍があったからこそ。
確かに土佐藩内部では、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らが
藩主の山内容堂を説得したんですが、
それも、龍馬に感化されての行動なわけです。
土佐藩がすごいんじゃなくて、
一度は土佐藩を捨てた浪士たちの熱い思いのおかげで
表舞台に出てきたようなものですよねえ^^;
先ほども書きましたが、土佐藩が幕末の最終段階で
大政奉還という、日本の歴史上とても大きな出来事に
重要なポジションで、突如として現れたのは、
龍馬や慎太郎の活躍があったからこそ!
なのに…
海援隊を発足したときに、2度目の脱藩も許されていたんだから、
土佐藩邸で寝泊りをしていたら、暗殺されずに済んだだろうに、
と勝手に残念な気持ちになってしまいますね^^;
でも、歴史に「もしも」は、ありえませんが…
土佐稲荷
当サイト中京区史跡マップ③番の位置 MAPはこちら>>
土佐藩邸跡の近くに、土佐稲荷(岬神社)はあります。
江戸時代、この神社は土佐藩邸の敷地内にあったそうです。
ですが、一般の人たちも解放されていて、
京の先斗町や木屋町の町人たちから
産土神として信仰されていたそうです。
つまり、一般の人でも、
土佐藩邸の敷地内に入ってお参りができたんです。
武士が詰める藩邸の敷地内に町人が入れるなんて、
とってもめずらしいことですよね^^
龍馬も京にいるときには、この土佐稲荷へ、
よくお参りに来ていたといわれていますね。
高瀬川周辺には、土佐藩邸だけでなく、
彦根藩など他の藩も屋敷を構えていたそうです。
江戸時代は、高瀬川は京と伏見をつないでいました。
伏見からは大坂(現:大阪)へ淀川がつながっていたので、
物資などを運ぶのに便利だったため、
高瀬川べりに藩邸を構えていたんですね^^
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