京都にある坂本龍馬の銅像の中で一番有名なのが、
枝垂れ桜で知られた花見の名所、円山公園にある、
龍馬と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が並んだ銅像ですね。
高知県の桂浜にある龍馬像と並んで、
龍馬ファンには、はずすことができない像です。
龍馬はどこか遠くを見つめているように感じますが、
日本の未来を見据えているんでしょうか^^
円山公園の銅像は、初代は昭和9(1934)年に
京都高知県人会の有志の方々によってつくられましたが、
第二次世界大戦の時に金属の供出のために撤去され、
今あるものは、昭和37(1962)年に再建されたものです。
この龍馬像は、伏見にある船宿の寺田屋に居た際、
女将お登勢(おとせ)のすすめで町の画家によって
描かれた肖像画が、モデルとなってつくられています。
でも肖像画とは、顔の雰囲気は似ていないような…(笑)
円山公園を出てから、霊山護国神社(りょうざんごこくじんじゃ)と
霊山歴史館へ行くには、少し急な坂道を
上っていかなくてはいけません。
今回主人と一緒に行きましたが、
普段あまり歩くことのない主人には、
この坂は、結構こたえたようです(笑)
霊山護国神社に着いて、拝観口のゲートに300円を投入し、
そこからは、長い階段があります。
普段歩きなれていないなら、途中景色を眺めながら、
休憩しつつ上るのがいいかもしれませんね。
龍馬と慎太郎のお墓は、
東山霊山の中腹くらいのところにありました。
龍馬たちのお墓の前からは、
京都の街並みが遠くまで一望でき、
木々が多く風もさわやかで、とても気持ちよかったです^^
余談ですが、霊山護国神社境内の休憩所にある
自動販売機のジュースは、キンキンに冷えていて、
夏に行った私たちが、坂や階段を歩いて火照った身体を
冷やしてくれて、とっても美味しかったですよ^^
当サイト東山区史跡マップ③番の位置 MAPはこちら>>
霊山歴史館は、幕末・明治維新期の歴史専門の博物館です。
龍馬をはじめとする倒幕派の志士達、
西郷隆盛や桂小五郎、高杉晋作(たかすぎしんさく)
たちの遺品や、新選組や徳川慶喜(とくがわよしのぶ)などの
幕府側の資料も数多く展示されている博物館です。
今回は、霊山歴史館の開館前に行ってしまったので、
外観の写真だけで、歴史館の感想が書けず…残念!
次回行った際に感想を追記しますね^^;
そして、歴史館内の写真は撮れないようなので、
言葉だけでしか伝えれそうにないのも残念です。
開館時間 10:00
閉館時間 季節等により、16:30、17:30、18:30と変わる。
入館料 常設展期間
大人500円、高校生300円、小中学生200円、
団体20名以上(大人)100円引き、(小中高生)50円引き
特別展期間と企画展の期間
大人500円、高校生300円、小中学生200円、
団体20名以上(大人)100円引き、(小中高生)50円引き
※詳細は、霊山歴史館のサイトでご確認くださいね。
霊山歴史館ホームページ
http://www.ryozen-museum.or.jp/docs/GUIDE-index.html
明保野亭(あけぼのてい)は、
産寧坂の途中にあり、尊王攘夷派の多くの志士たちに
利用されたそうで、龍馬もよく利用したともいわれています。
司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」では、
龍馬の主筋で、土佐藩家老福岡家の娘のお田鶴様と
身分の差を越えた恋物語の密会の場として
何度か登場していますね^^
でも、「龍馬がゆく」を読んでから
ずいぶん経って知ったことですが、
お田鶴様は、モデルになった人はいるようですが、
残念ながら、実在の人ではなかったんですねえ。
また龍馬にかかわりはありませんが、明保野亭は、
元時元(1864)年に起きた、明保野亭事件の舞台となりました。
●明保野亭事件とは
この事件は、多くの長州藩士が新選組によって
殺されたり捕まったりした池田屋の変のあと、
生き残った藩士たちが、明保野亭潜伏している
との情報により、新選組とその応援の会津藩士が踏み込んだ。
その際会津藩士の柴司(しばつかさ)が誤って、
池田屋の変や長州藩とは無関係の土佐藩士の麻田時太郎を
背後から手槍で突きケガをさせた。
刺された麻田時太郎は、土佐藩命により切腹。
柴司はおとがめなしだったため、
土佐藩に不公平な処理として、土佐藩と会津藩に緊張が走った。
土佐藩と会津藩の事態悪化を避けるため、
柴司は自ら切腹し、藩同士の衝突は避けられた。
■京大和 翠紅館
霊山歴史館のそばにある料亭の「京大和」は、
幕末当時は「翠紅館(すいこうかん)」という
西本願寺の別邸でした。
現在は、保護建造物に指定されています。
ここで、文久3(1863)年1月27日、
龍馬の盟友で土佐藩士の武市半平太をはじめ、
長州藩士の久坂玄瑞(くさかげんずい)や
桂小五郎、久留米藩士の真木和泉(まきいずみ)らが集まり、
攘夷の具体的な方法を検討した「翠紅館会議」が行われました。
文久3(1863)年の龍馬は、幕末を駆け抜けたあの龍馬ではなく、
勝海舟の門下生になって、ようやく海軍塾を立ち上げたころです。
幕末のそうそうたる面々の攘夷の方法とは違い、
独自路線を走っていた龍馬だったんですね。
今回は、写真を撮リ忘れてしまったので、
次回、撮影した時に写真をアップします^^
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