後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、土佐藩上士だった人です。
龍馬たち郷士とは違い、藩主の山内容堂(やまうちようどう)とも謁見できるレベルの士族ですね。
2人は幕末の最期の段階、大政奉還の時期に手を組みました。
今回は明治維新前後の関西での後藤象二郎のご紹介です。
武市半平太とのかかわり
龍馬の親友だった武市半平太(たけちはんぺいた)は、土佐藩全体を尊王攘夷にする一藩勤王を掲げて土佐勤王党を結成。
ですが、土佐藩参政の吉田東洋がおこなった藩政の改革は、尊王攘夷をすすめる半平太たちとは対立するものでした。
その結果東洋は、半平太主導のもと土佐勤王党の志士によって暗殺されてしまいます。
その後、半平太自身は下士で藩の役職にはつけない身分のため、影で要職の上士たちを操りながら裏で実権を握りました。
ですが、藩主山内豊範(やまうちとよのり)に代わり、豊範の父山内容堂(やまうちようどう)が実権を握ると、土佐勤王党は弾圧されてしまいました。
その容堂に抜擢されて藩の要職についた象二郎は、投獄された土佐勤王党の取り調べもするようになったんです。
象二郎たちの拷問は、それは厳しかったようです。
最終的に半平太は象二郎たちによって切腹に追いやられたんですよね^^;
後藤象二郎にとって、義理の叔父(叔母の夫)である吉田東洋(よしだとうよう)を暗殺の黒幕の半平太は仇の存在でした。
そして土佐勤王党の志士たちをを投獄し、半平太を切腹させた容堂の部下、象二郎は龍馬にとって許せない相手。
その2人が、維新直前の最終段階で手を組むことになったんですね。
2人とも、感情よりも未来を見ることができる器があったのか、お互いの立場の利害の計算を見据える頭脳があったのかきっと両方持ち合わせていたということなんでしょうかね^^
龍馬との出会い
後藤象二郎は、その頃の土佐藩の財政などを立て直すべく慶応2年(1866年)には上海へ視察に行っています。
その後慶応3年(1867年)1月、長崎に行った折に龍馬と初めて会い、2人は意気投合します。
慶応3年(1867年)4月には、象二郎の働きで龍馬は、2度目の脱藩の罪を赦され、海援隊の隊長に任命されました。
江戸時代、一度の脱藩でも捕まれば最悪死刑になることもあったそうなので、龍馬の運の強さを感じますね^^
そして龍馬が提案した大政奉還を上士の象二郎が山内容堂に進言したんですよね。
ただ、象二郎は龍馬の名前は一切出すことなく、自分が考えたかのように容堂に話をしているんですね。
小賢しいというか、腹黒いというか…
ま、龍馬は脱藩を2回もしたし身分は郷士なので、龍馬の名前を出すと余計にややこしいと考えたのかもしれませんが^^;
明治政府の官僚
象二郎は明治政府の官僚として、慶応4(1868)年7月12日~明治3(1870)年7月12日の間第2代大阪府知事になっています。
当時の大阪府庁は現在の場所ではなく、大坂西町奉行所だった場所にあったんですね。
その西町奉行所跡地は、今は大阪商工会議所の隣にあるマイドームおおさかという展示場になっています。
実業家に転身
大阪府知事など政治家として活動しましたが、明治6(1873)年に征韓論争に敗れたことで西郷隆盛らと一緒に官僚を辞めました。
明治7(1874)年に実業家となり、商社「蓬莱社」を設立。
明治8(1875)年2月に大坂の熊本藩蔵屋敷の敷地を払い受けてイギリスの機械を使って洋紙の製造を始めました。
日本で初めて洋紙を製造した場所とも言われています。
現在は、隣り合ってあるリーガロイヤルホテルとグランキューブ大阪(大阪府立国際会議場)の狭間のグランキューブ側の庭内に『近代製紙業発祥の地]と書かれた石碑と説明板があります。
象二郎は実業家に転身したものの、放漫経営のためにわずか2年で破たんしてしまい、三菱の創設者岩崎弥太郎に売却したそうです^^;
その後また政治家になったんですね。
余談ですが、日本人で初めてルイ・ヴィトンの顧客になった人なんだそうですよ^^
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