京都見廻組(龍馬暗殺者)の墓石碑
龍馬の死後、慶応3(1867)年12月9日に王政復古の大号令が発せられ、
江戸幕府による武家政権が終わり、新政府が樹立されました。
それに不満をもった旧幕府軍と新政府軍(討幕派)が武力衝突。
慶応4(1868)年1月3日に鳥羽伏見の戦いが始まりました。
その戦いに京都見廻組も参戦し、最前線で戦いました。
龍馬暗殺の実行犯といわれる隊士のうち桂早之助(かつらはやのすけ)と
渡辺吉太郎(わたなべきちたろう)は、この戦いで負傷し戦死してしまいます。
大阪天王寺区にある心眼寺
心眼寺 当サイト天王寺区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>
鳥羽伏見の戦いで戦死した桂早之助と渡辺吉太郎は、
現在の大阪市天王寺区にある心眼寺まで運ばれ葬られました。
本堂の手前の左側に、桂早之助と渡辺吉太郎のお墓はありました。
墓碑には渡辺吉三郎となっていますが、渡邊吉太郎が正しいようですね。
ちなみにこのお寺は、NHK大河ドラマ「真田丸」主人公の真田幸村(真田信繁)のお墓もありました。
江戸時代から真田幸村の菩提を弔っており、400回忌に際して墓碑ご建立したものです。
お寺の入口には、「真田幸村出丸城跡」の石碑もありました。
このお寺の近くには真田山公園もあり、
この辺りは大阪冬の陣の戦場で真田幸村が活躍した場所なんですね。
龍馬の最期
近江屋跡地 当サイト中京区史跡マップ②番の位置 MAPはこちら>>
慶応3(1867)年11月15日、当時龍馬が隠れ家としていた京都の河原町にある近江屋で
風邪をひいて休んでいるところへ同志の中岡慎太郎が訪れ、
これからのことを話し合っているときに、突然現れた刺客によって殺されてしまいました。
奇しくも龍馬の誕生日と同じ日が命日となってしまったんですね。
暗殺犯は、新選組説、薩摩藩説、紀州藩説、土佐藩説など諸説ありますが、
現在では、京都見廻組説が定説となっています。
京都見廻組の中で龍馬を暗殺した実行犯といわれるうちの2人が心眼寺で眠っています。
龍馬の命を奪った赦しがたい人物ですが、桂早之助は28歳で渡辺吉太郎は26歳という若さで
亡くなっています。
私利私欲のためではなく自分が所属する幕府のために命を散らせたんだと思うと…
この史実があって今の私たちの時代が築かれたんだと思うと…
龍馬を殺して憎い!と単純には思えなくもなります^^;
でもやっぱりこの人たちが龍馬を殺さずにいたら、
その後の歴史はまた違ったものになっていたかもしれないし、
龍馬個人の夢も叶えることができただろうにと思うと、
すごくすっごく残念な気持ちが勝ってきますね。
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