「龍馬がゆく」では、最初の剣術修行で江戸へ向かう時、
土佐(現:高知)からの船が天保山(てんぽうざん)沖に
ついたと書かれていますね。
この天保山から陸路、江戸へと歩いて行ったんでしょうか^^
それ以降も、天保山から船を利用したようで、
幕府の軍艦で江戸や兵庫へ行ったり、
薩摩藩船で薩摩(現:鹿児島)へ向かったりしたそうです。
そして、寺田屋で幕吏に襲われた後、養生を兼ねておりょうと
日本で初めての新婚旅行といわれる薩摩への旅も
天保山から船は出発したそうですよ^^
勝海舟(かつかいしゅう)が案内し、
14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)を
大阪湾を見て回ったときにも天保山から乗船したそうですね。
嘉永7(1854)年9月、大阪湾にロシアのプチャーチンが率いる
軍艦ディアナ号が現れたことで、
大阪湾が諸外国から攻撃されるのを防ぐための
重要な拠点と天保山も位置付けられたんですね。
今はありませんが、この天保山にも砲台が築かれたんですよね。
その後、明治元(1868)年3月に明治天皇が大阪に来られた際、
天保山から新政府の軍艦の観艦式をしたそうで、
その記念の立派な記念碑が建っていました。
天保山を描いた風景
天保山の塀に陶板画がいくつか飾られていました^^
上の写真は、天保の大浚(おおさらえ)の様子で、
船が整列して砂をさらえる様子が描かれている、
天保山名所図会「大浚」です。
天保2(1831)年頃に安治川の洪水防止と
市中へ大型船が入港しやすくするために
浅瀬の砂をさらえて船に積んで岸に揚げ、
籠や桶、車に積んで積み上げていったんですね。
幕府の命で500艘もの船を使って行われたそうで、
まったくの人海戦術だったそうなんです。
いったい何人の人がかかわったんでしょうねえ^^;
この写真の絵は、浮世絵師の初代歌川(安藤)広重による
本朝名所「大坂天保山」です。
川浚えの土砂を積み上げてできた天保山は、
遊興地としても整備されて、
冬の雪見や夏の遊船などでにぎわったそうです。
そんな風景が描かれているんですね^^
大坂の浮世絵師、南粋亭芳雪(なんすいていよしゆき)の
「浪花百景天保山」です。
天保山は、船の目標となったので、
目印山とも呼ばれていたんですね。
その沖に諸国の廻船に水深が深い安全な水路を知らせるための
杭のひとつに澪標(みおつくし)がありました。
澪標は、川と海の境の一之洲(いちのす)に立つものを
一番として、そこから川上に向かって十番まで設置されていました。
その第一番の澪標は、上部の形から「鯖の尾」と呼ばれて
浪花第一の風物として知られていたんですよね。
その澪標がこの絵に描かれているんですね^^
龍馬が天保山から船を乗り降りしたときにも
澪標は、あったんでしょうね^^
そしてこの澪標が、現在の大阪市の市章のもとになったんです。
現代の天保山
天保山は、江戸時代にできた当初は、
20mほどの高さがあったようなんですが、
砲台をつくるために削り取られたり、
地盤沈下などでどんどん高さが低くなってしまいました。
看板では、現在の標高は4.53mで、日本一低い山となっていますが、
今年(2014年)の4月に仙台市に標高3mの山が認定されたので、
日本で2番目に低い山になってしまったようです^^;
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