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勝海舟(かつかいしゅう)が幕府に進言して
神戸に海軍操練所をつくりましたが、出来上がるまでの
文久3(1863)年3月から9月24日までの約半年間、
大坂(現:大阪)で勝海舟の私塾の海軍塾があったんですよ^^
大坂の海軍塾は、海舟が仮住まいとしていた専称寺で、
今はビジネス街となっている中央区淡路町2丁目、
スワンビルあたりにあったようです。
大坂の海軍塾の塾頭は、海舟の一番弟子といわれる
庄内藩士の佐藤与之助(さとうよのすけ)が務めていました。
もちろん、龍馬もここへよく訪れていたようですよ。
そして、海舟と西郷隆盛(さいごうたかもり)が
初めて会ったのがこの専称寺だったともいわれています。
そして、このころに龍馬は福井の松平春嶽(まつだいら しゅんがく)
のところへ、神戸での海軍塾建設のための費用、
1000両とも5000両ともいわれている額の用立てを
頼みにいったんですね。
勝海舟寓居跡(順正寺跡)
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大阪市福島区にある中央卸売市場のあたりに、
幕末当時は順正寺というお寺があったんですね。
そこを勝海舟が仮住まいとしていたのが、
専称寺を住まいとする少し前のようです。
ここを拠点にして、大阪湾を外国から守るため、
兵庫、泉州、紀州など砲台を設置する場所を
探していたかもしれませんね。
神戸海軍操練所史跡
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神戸海軍操練所は、海舟が将軍徳川家茂に直訴する形で認められ、
文久3(1863)年9月に設立されました。
海舟はこの海軍操練所を日本の防衛のためというだけでなく、
将来的には、当時の朝鮮、清国の三国連合で艦隊をつくって
西欧から東アジアを守るための防衛体制を
つくるつもりだったそうです。
壮大なイメージを掲げた学校だったんですね^^
なのに、1年ほどでつぶされてしまうなんて…
海舟も無念だったでしょうね^^;
勝海舟私塾海軍塾跡
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現在の神戸の中心地、三宮駅前の神戸交通センタービル付近に
海舟は屋敷を構えたそうです。
そこに海軍操練所とは別に
海舟の私塾の海軍塾もつくったんですね。
それに伴って、大坂にあった海舟私塾の海軍塾も
神戸に移転することになったんです。
そして龍馬は、神戸の海軍塾の塾頭になったんですよね。
龍馬たち塾生は、海舟の屋敷から少し西側、
現在の三宮町あたりに寮があり、そこに住んでいたそうです^^
文久4(1864)年6月に起きた池田屋事件、
7月に起きた禁門の変に海軍塾の塾生がいたことで、
海舟は江戸に召還されて軍艦奉行職も解かれてしまいました。
それによって神戸海軍操練所も閉鎖されてしまって、
当然、海舟私塾の海軍塾も閉鎖になったんです。
それで、勤王派への弾圧が始まっていた土佐へ戻らなかったため
自動的に脱藩浪士となっていた龍馬たち土佐藩士は、
海舟の計らいで、薩摩藩の大坂の蔵屋敷で
匿ってもらうことになったんですね。
薩摩藩にとっても、船の操縦などに長けている
海軍塾生がくることはメリットがあったようなんですよね。
そうして海軍塾が解散することで
のちに亀山社中ができ、海援隊へとつながるわけですね^^
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