和田岬砲台 当サイト神戸市兵庫区史跡マップ③番の位置 MAPはこちら>>
和田岬砲台は、幕末の大阪湾沿岸部の防備策のひとつとして
勝海舟の指示でつくられました。
勝海舟の部下の佐藤与之助(さとうよのすけ)が設計し、
灘の回線業者の嘉納次郎作(かのうじろうさく)が
工事を請け負ってつくられたんですね。
この和田岬砲台の建設中には、勝海舟と一緒に龍馬や、
また14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)たちが、
視察に訪れたそうです。
でも砲台がつくられた後まもなく明治維新を迎えて
政府が開国宣言をしたので、
砲台は1度も大砲を設置することはなくて、
実践に使われることはなかったんですよねえ。
述べ1万人の人が携わって莫大なお金が使われたのに…
まあ、外国と戦争せずに済んで良かった、
ってことですよね^^;
沿岸の砲台は4か所ありましたが、
川崎と今津にあった砲台はもう無くて、
西宮とこの和田岬の砲台が現存しています。
でも、西宮砲台は中を見学することはできないんですよね。
砲台の中を見学できるのは和田岬のものだけなんです。
和田岬の砲台自体は国の史跡に指定されていますが、
三菱重工の敷地内にあるので、
見学希望の際は、三菱重工に予約が必要なんですよ。
それで、今回予約して見学に行ってきました^^
この砲台は、平成19年から平成26年にかけて
大がかりな保存修理工事がおこなわれたので、
今回の見学は、修理後ほやほやの内部見学でした^^
本当なら、砲台の外観写真を撮影したかったんですが、
砲台のすぐそばで潜水艦を製造しているため、
防衛省からのお達しで、三菱重工の敷地内は、
現在は撮影禁止になってしまってるんですよね。残念です。
なので、今回はパンフレットに載っていた
明治33年頃の写真を掲載しています^^;
砲台内部見学 1階
砲台は2階建てなんです。
砲台の1階の真ん中あたりには井戸がありました。
「砲台と井戸??」
「どんな結びつきがあるんだろう?」
そう思っていたら、ガイドの女子社員の方が教えてくれました。
なんでも、2階から大砲を打ったときに、
その大砲を冷やすための水を汲むのに必要だったそうです。
だからこの井戸水は真水ではなく、海水なんだそうですよ^^
この井戸を囲むようにたっている本の柱は
四天柱と呼ばれるもので、2階部分を支える重要な柱だったようです。
1階の井戸の手前は土間になっていますが、
奥側は、板の間になっていて棚が据え付けられていました。
この棚に火薬や砲弾を置くようになっていたんですね。
2階から大砲を打った際に、
井戸水を汲み上げてその大砲を冷やすんですが、
その時に使った水で2階の床は水浸しになるんですよね。
その水は、銅の樋を通って下に流れる仕組みだったようです。
今回の補修は、文化財保護を目的としているので、
丁寧に内部を解体して、使える材料や部材は再利用して、
痛んで使えないものは同じ素材の木材を使って
色も同じようにして継いで使ったそうです。
L字型の留め金は当時のものだそうです。
柱は、根継ぎをして新しい木材を加工して使ったそうですよ^^
この2枚の写真は、解体修理に伴って写されたものです。
解体しながら、内部がどうなっていたかの
調査も兼ねていたんですね。
砲台内部 2階
1階から見上げて写した、2階天井の写真です。
2階は、一般の人は見学できなかったんです。
なんでも、2階に上る階段が急なので、
危ないからなんだそうですよねえ…
どうせなら、大砲を設置する予定だった
2階の砲眼から海を眺めてみたかったです。
この写真の階段は、今回の改修工事の時につくられたもので、
本来は梯子のような階段がついていたそうですよ。
この階段が白っぽい色をしているのは、
これは、もとからあったものではなくて、
後からつくったことがわかるように、との意味なんだそうです。
この2枚の写真が2階部分の解体修理時の写真です。
2階には、幕末当時としては珍しい、
鉄の柱も使われていたんですね。
最新の技術が詰め込まれて作られていたんですね^^
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