神戸海軍操練所史跡 当サイト神戸市中央区史跡マップ③番の位置 MAPはこちら>>
勝海舟(かつかいしゅう)の門下生になった龍馬は、
勝海舟が幕府に進言して神戸海軍操練所をつくるさいに
私塾の海軍塾をつくったので、
その塾長として神戸にやってきました。
勝海舟がなぜ海軍操練所を神戸につくったかというと、
攘夷論が高まる中、京へ欧米諸国が攻めてくるのを
防ぐための拠点とするためでした。
明治の頃に撮られた海軍操練所の教室の写真です。
この操練所は、勝海舟や龍馬の夢や野望が
いっぱい詰まっていましたが、
1年足らずで閉鎖することになってしまいました。
それは、京で起きた池田屋事件、禁門の変で
海軍塾の塾生、望月亀弥太(もちづきかめやた)や
北添佶摩(きたぞえきつま)らが死亡したため、
勝海舟を良く思っていない幕臣たちに責任をとらされたんです。
勝海舟の私塾の海軍塾には龍馬を筆頭に、
土佐藩脱藩浪士や長州藩に肩入れする生徒が多かったので、
勝海舟は幕臣なのに、反幕府的だと思われたんですね^^;
勝海舟屋敷跡
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勝海舟が住まいとし、また私塾の海軍塾を開いた場所が、
神戸の中心地、三ノ宮駅あたりなんです^^
三宮駅前の神戸交通センタービル付近が
その場所だといわれているんですね。
ここで、龍馬たちは塾長として船や海軍のことを
勉強したんでしょうね。
でも、龍馬自身は、勝海舟の使者として
福井へ出向いたり、京都や大坂(現:大阪)、江戸(現:東京)へ
行ったりと忙しくしていたようなので、
あまり勉強はできていなかったかもしれませんね^^
海軍営之碑 当サイト神戸市中央区史跡マップ⑤番の位置 MAPはこちら>>
山の手にある諏訪山公園には、
勝海舟直筆の碑文が掘られた海軍営之碑があります。
「ここが日本海軍の発祥の地になる。」
と石碑をつくって海軍操練所内に設置したんです。
でもせっかく作ったこの石碑は、
1年足らずで海軍操練所が閉鎖されたため、
生島四郎が保管したあと、大正4年に寄贈されたので
今は、諏訪山公園にあるんですよね^^
石碑の裏側には、勝海舟と懇意で
越前藩主だった松平春嶽(まつだいらしゅんがく)(源慶永)が
がつくった和歌が刻まれていますよ。
大坂の海軍塾
大坂での勝海舟寓居跡
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神戸海軍操練所が出来上がるまでの約半年間、
勝海舟が仮住まいし、海軍塾を開いていたのが、
現在はビジネス街となっている、
大阪市中央区本町界隈の淡路町3丁目だったんですね。
専称寺というお寺だったんですが、
このお寺は明治時代に何度か移転し、
戦後は神戸市中央区にあるそうです。
大坂にあったときの専称寺には龍馬も来ていたようですが、
第二次世界大戦時の空襲で資料は、
焼けて無くなってしまったそうです。
今は雑居ビルになっていて、石碑などもなく
残念ながら当時を偲ぶものはまったくありませんね^^;
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