無動庵(土佐四天王像) 右:当サイト右京区史跡マップ②番の位置 MAPはこちら>>
京都に幕末土佐四天王の像があると聞いて、
調べるとなんと嵐山の方にあるそう!
龍馬や武市半平太(たけちはんぺいた)ら
って嵐山に縁があったっけ?
本当にあるのか気になったので、
実際に見に行ってきました。
田園風景がひろがり、落柿舎の向かい側にある
「無動庵」というカフェの敷地に四天王像がありましたよ^^
土佐四天王像 右:当サイト右京区史跡マップ②番の位置 MAPはこちら>>
四天王像の説明書きによると、
『風雲急を告げる幕末の京洛に於いて元治元年(1864)
坂本龍馬は中岡慎太郎と長州本陣天龍寺に長州藩士の
来島又兵衛、久坂玄瑞を訪ねるために立ち寄ったという
口碑を伝えている。』
と書かれていました。
「うーーーんっ!?
私の知っている情報とは違うような…^^;」
長州藩士らが天龍寺に集まっていた禁門の変の当時は、
龍馬は神戸海軍操練所の塾長として
勝海舟の門下生としての動きがメインのような…
もちろん、神戸と大坂(現:大阪)、京(現:京都)を
行き来していたのはまちがいないと思いますが…
半平太はその頃は土佐(現:高知)で投獄されていたはずだし、
吉村寅太郎(よしむらとらたろう)にいたっては、
そのときには、すでに亡くなっていましたから^^;
唯一、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は、
天龍寺にいたと思いますけどね^^;
ちょっと説明碑には、無理があるような気もしますが。
でも、こんなところにも幕末を支えた土佐藩士の像がある
っていうのは、感動ものです!
通り過ぎる人たちも、まさかこんなところに
龍馬像があるなんて思わないのか、
見つけると驚きながら通り過ぎていましたね^^
ただ、この四天王像の中で、龍馬以外の3人の顔は
きりっと引き締まっているのに、龍馬の顔だけは、
やさしいというのか、間が抜けた表情に見えるのは、
私だけなんでしょうか^^;
天龍寺と長州藩士
天龍寺 右:当サイト右京区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>
元治元(1864)年7月のこと、
京を追われて長州(現:山口)に帰っていた長州藩士たちが、
藩主の汚名を晴らし、京の天皇を奪い取るべく
挙兵のために京へ上ってきていました。
総勢約2,000名の兵は3隊に分かれ、
山崎天王山、伏見長州藩邸とここ嵯峨天龍寺に陣営を構えていました。
この天龍寺を本拠地としていたのが
来島又兵衛(きじままたべえ)が率いる、
遊撃隊を中心とする500名でした。
そして、7月19日に禁門の変(蛤御門の変(はまぐりごもんのへん))前夜、
と呼ばれる事件が起き、長州藩は幕府軍勢に負けてしまって
朝敵となってしまったんですね。
天龍寺塔頭の弘源寺の柱には、禁門の変前夜に長州藩兵たちが
試し斬りをしたといわれる、柱の刀傷が残っているそうです。
さらに、天龍寺塔頭松巌寺の墓地には、
龍馬の銅像が立っているそうなんですよ。
土佐四天王のなかで、唯一この時期ずっと長州藩士たちと
行動を共にしていたのが慎太郎です。
禁門の変にも参加していて、
来島又兵衛部隊とともに幕府軍と戦ったそうなので、
慎太郎だけは、この天龍寺に居たと考えられますね。
四天王像があるあたりの風景
土佐四天王の銅像がある付近は、
とっても自然豊かな風景で、
気持ちが洗われるような感じがします^^
田んぼが広がり山を間近に感じて、
近辺には竹林もあって…
春には桜、秋は紅葉がきれいですし、
目的なしに、ぶらぶらと歩くだけでも
とっても気持ちがいいですね^^
龍馬らが生きていた時代も、今とあまり変わらず
こんな風景が広がっていたような気がしますね。
京都の中でもこの辺りは竹林も有名ですね。
まっすぐに伸びたたくさんの竹を見ながら歩いていると、
本当に気持ちがいいものですね^^
でも、天龍寺に集まった長州藩兵たちは、
こんな竹林やのどかな風景を楽しむような心持ちでは
なかったでしょうね^^;
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