京都市内の四条から三条にかけての、
河原町・木屋町界隈には、
幕末史に関係するたくさんの史跡がありますね。
そのほとんどは当時の面影はまったくなく、
ひっそりと石碑があるだけになっています。
そのためか通りを歩く99%の人は、
石碑には全く目もくれずに歩いていきます^^;
そんな幕末をにぎわせた史跡と
現在の姿を比べてみました^^
龍馬暗殺「近江屋」
龍馬暗殺の地(近江屋跡地)
当サイト中京区史跡マップ②番の位置 MAPはこちら>>
京都の中でも最も人通りが多くにぎわっている、
河原町通り蛸薬師下るあたりに
龍馬と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)遭難の地の
石碑があります。
でも、約150年前の慶応3(1867)年11月15日、
龍馬と慎太郎、下僕の藤吉の3名が
当時土佐藩に出入りしていた醤油屋の近江屋に居るところを
刺客に襲われ絶命したんですね。
薩長同盟で犬猿関係の薩摩藩と長州藩を握手させ、
時の将軍、徳川慶喜に政権を返上という大政奉還をさせ、
龍馬と慎太郎の働きで幕末史が大きく動きました。
あともう少しで新しい時代に立ち会えるはずだったのに…
本当に、幕末の日本を外国の侵略から守り、
国内中を戦で血に染まらないように収めるために
天から使わされたような二人ですよね。
2014年10月現在、近江屋の跡地は、
回転寿司のお店になっていました。
その名も「京のとんぼ近江屋本店」です。
近江屋本店って…^^;
近江屋っていう地名でもなんでもないのにねえ。
近江屋の末裔の方がオーナーでもないし。
龍馬人気にあやかった名付けとしか思えないですよね^^;
中岡慎太郎京の住居「菊屋」
中岡慎太郎仮住まい跡地(菊屋跡地)
当サイト中京区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>
近江屋跡地を河原町通りを挟んで少し南側に
慎太郎が陸援隊本拠地の白川土佐藩邸に移るまで住んでいた
土佐藩御用達の書店「菊屋」跡地があります。
ここには、慎太郎だけでなく、
他の土佐藩士も出入りしていたようですね。
この菊屋の息子の峰吉を、
慎太郎も龍馬もかわいがっていたようで、
峰吉もとても慕っていたそうです。
ここの峰吉は、龍馬と慎太郎が刺客に襲われたとき、
龍馬のおつかいで、軍鶏を買いに行っていたため、
難を逃れています。
慎太郎の仮住まい「菊屋」は、
現在は「象屋」というあぶらとり紙専門店になっています。
慎太郎寓居跡の石碑の横には、
龍馬と慎太郎のイラストが描かれた
ポスターが貼ってありました^^
河原町土佐藩邸
土佐藩邸跡地
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龍馬が勝海舟(かつかいしゅう)のとりなしで、
1回目の脱藩を赦され、その罰として7日間謹慎させられたのが
河原町土佐藩邸でした。
そして龍馬は、亡くなる直前は、
自分が命を狙われていることを
ひしひしと感じていたので、身の安全のためにも
「この土佐藩邸に居たい。」
という願いを出していたのにもかかわらず、
土佐藩側から許可がおりなかったようなんですよね。
その時点では、龍馬は2度目の脱藩も赦されていたんですが、
「2度も脱藩している奴なんて入れるな!」
という一部の頑固な上士たちの意見によって、
龍馬は近江屋に居を構えたんですね。
その結果…
龍馬と慎太郎は、暗殺されてしまったんですね。
この藩邸は、高瀬川に面してつくられていました。
高瀬川沿いには、土佐藩邸のほかにも
彦根藩や加賀藩などが藩邸をおいていました。
物資を運ぶために高瀬川べりに構えていたんですね^^
土佐藩邸跡地は、立誠小学校となり、その後廃校になっています。
この学校の玄関わきには、
高瀬川の開削に取り組んだ角倉了以(すみのくらりょうい)の
顕彰碑がありました。
そして、高瀬川の沿革も掲示されていました。
その高瀬川の沿革図をみると、
幕末当時の龍馬や武市半平太などの仮住居跡なども
位置がわかりますよ^^
池田屋事件の発端古高俊太郎の住居
古高俊太郎の家跡地
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池田屋事件の発端となった、古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)が
枡屋喜右衛門(ますやきえもん)という名で薪炭商として
店を構えていた「枡屋」の跡地の石碑は、
阪急四条河原町を1本北に上がった細い路地にあります。
ここに、新選組が来て俊太郎を捕らえ、
過酷な拷問の末に、長州藩士らの集会の情報を入手したといわれ、
池田屋にいる長州藩士たちを襲撃したんですよね。
古高俊太郎のお店「枡屋」は、
昭和7年創業の「志る幸」という、和食のお店になっていて、
懐石料理などもありますが、
特にお味噌汁にこだわったお店のようです。
けっこう人気の高いお店のようで、
時間帯によっては並んでいることもあるそうですよ。
新選組に襲撃された「池田屋」
池田屋事件跡地
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御池通りにあった長州藩邸にもほど近い、
三条通りに面した所に、池田屋事件の石碑が立っています。
元治元(1864)年6月5日、この場所にあった旅籠「池田屋」に
長州藩士を中心とする尊王攘夷の志士たちが
集まって談合をしていました。
古高俊太郎の自白をもとに、数か所の旅籠などを
手分けして探索していた新選組の隊士たちが
ここ、池田屋にも来たんですね。
そこで壮絶な斬り合いがあり、
その場にいた志士たちのほとんどは
捕われるか斬殺されたんですね。
そこには、龍馬が塾頭をつとめる神戸海軍操練所の
望月亀弥太(もちづきかめやた)や、
北添佶摩(きたぞえ きつま)土佐の志士たちも居て、
斬られたり、自害して果てていますね。
池田屋事件の跡地は居酒屋になっていて、
その名も「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」。
メニューも、幕末を意識したネーミングのものが
けっこうあります。
でも、どちらかといえば、新選組がメインの感じの
扱いですね^^;
そして、東映が監修して店内はつくられているそうで、
まるで映画のセットのようだそうです。
しかも、8mもの大階段までつくられているようですよ。
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