土佐四天王像(無動庵) 右:当サイト右京区史跡マップ②番の位置 MAPはこちら>>
幕末には、秀でた志士がたくさん出ましたが、
土佐藩からも多くの志士が誕生しました。
その中でも、現在、土佐四天王といわれるのが、
龍馬はもちろん、武市半平太(瑞山)(たけちはんぺいた(ずいざん))、
中岡慎太郎(なかおかしんたろう)そして、
吉村寅太郎(よしむらとらたろう)の4名です。
半平太だけは、最後まで土佐藩士の立場でいましたが、
龍馬、慎太郎、寅太郎の3名は脱藩して、
長州藩や薩摩藩の庇護の元活躍しました。
そんな四天王の京(現:京都)での活躍って、
どんなだったんでしょう。
龍馬の京での出来事
左:龍馬の写真 右:酢屋にある海援隊隊員名簿
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龍馬の京での一番最初の功績といえば、
慶応2(1866)年1月21に、
犬猿の仲の薩摩藩と長州藩の手を組ませた
薩長同盟の締結をさせたことですね。
薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)、小松帯刀(こまつたてわき)、
大久保利通(おおくぼとしみち)らと
長州藩の桂小五郎(かつらこごろう)同席で
龍馬立ち会いのもと薩長同盟は結ばれました。
特に長州側からすれば、憎んでも憎みきれないほどの薩摩藩。
それを和解させた土佐藩浪士、龍馬と慎太郎の働きは、
「すごい!」という言葉だけでは軽すぎる感じもします。
薩長同盟締結直後に、寺田屋事件で深い傷を負った龍馬は、
薩摩(現:鹿児島)へおりょうとともに養生へ向かい、
そのまま長崎や下関にいたようです。
この次の龍馬が京での大活躍は、
武力討幕を避け、幕府自らが政権を放棄するという
大政奉還をすすめるためでした。
そして土佐藩主導のもと、
慶応3(1867)年10月15日に大政奉還が認められたんですね。
大政奉還から1カ月後の11月15日、龍馬は慎太郎とともに
そのころ宿としていた、河原町の醤油商「近江屋」で
刺客に襲われて命を落としてしまいました。
そのため、龍馬のお墓は高知ではなく、京都東山にある
霊山護国神社(りょうぜんごこくじんじゃ)にあるんですね。
半平太、京での栄華
左:武市半平太肖像画 右:半平太寓居跡石碑
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武市半平太と龍馬は、
二人とももともとは尊王攘夷の思想を持っていましたが、
あるときから龍馬は勝海舟の門人となり、
開国倒幕という考え方へとシフトしていったようです。
でも考え方は違ってもお互い魅かれあうものがあり、
仲はとてもよかったようです。
遠縁にもあたるようですね。
半平太は個人としてではなく、
土佐藩として勤王をすすめることを願っていました。
土佐で強固な佐幕派の参政、吉田東洋を暗殺してからは、
尊王攘夷派の上士を裏で操りながら、
土佐藩を勤王の藩に持っていきました。
文久2(1862)年8月に京へ上り、
朝廷の尊攘派公卿や長州藩士たちと交わり、
攘夷のための朝廷工作に奔走し、ついには、
土佐藩の京都留守居役(きょうとるすいやく)にまで上りつめました。
半平太は、もとは白札という郷士と上士の間の身分なので、
異例の出世なんです。
そのころが半平太にとっては、
一番輝いていた時期だったんですね^^;
その後、前藩主の山内容堂(やまのうちようどう)によって、
尊王攘夷派の弾圧がおこなわれました。
半平太も文久3(1863)年4月、土佐へ戻ることになり、
まわりの長州藩士たちは、半平太に脱藩を勧めました。
また龍馬の妻、おりょうが晩年に語ったところによると、
半平太は土佐へ戻る前に龍馬の所へ来て、
「一緒に土佐へ戻ろう。」
と、誘ったそうです。
龍馬は、「今土佐に帰ったら、必ずやられる。」
と言って半平太を止めたそうですが
土佐藩一藩での尊王攘夷にこだわる半平太は、
みんなの言葉を聞き入れることなく土佐へ戻ってしまいました。
そして最後には切腹させられたんですね。
龍馬は、「武市は正直すぎるからやられた。惜しいことをした。」
と残念がったそうです。
中岡慎太郎の活躍
左:中岡慎太郎写真 右:陸援隊跡地(現:京都大学敷地)
右:当サイト左京区史跡マップ④番の位置 MAPはこちら>>
中岡慎太郎は、脱藩後は長州にわたって、
禁門の変に参加したり、下関戦争に加わったり、
龍馬とともに薩長同盟のための根回しに走ったりと
すごい行動力で活動しています。
その中でも京では、武力討幕のための浪士結社、
陸援隊をつくり、その隊長となって
いつ幕府を討つという時が来てもいいように
洋式の兵の訓練をつんでいました。
慎太郎自身の本音は武力討幕のようでしたが、龍馬が
「土佐藩主導で大政奉還を訴えれば、土佐藩が表舞台に立てる。
そして、幕府が大政奉還を拒否すれば、
その時は武力に訴えることができる!」
その言葉に納得して、まずは大政奉還のために龍馬とともに
武力討幕派の岩倉具視(いわくらともみ)や
長州藩士たちを説得にもあたっていたんですね。
慎太郎の働きがなく、龍馬だけでは、
薩長同盟も大政奉還も難しかったかもしれません。
それほど、慎太郎の動きはすごいものだったようです。
そうして、大政奉還が成った1カ月後に、
慎太郎は龍馬とともに近江屋で斬られ、翌々日に絶命しました。
慎太郎は、龍馬とともに今でも京都の街を見下ろしながら、
霊山護国神社に眠っています。
吉村寅太郎と天誅組
左:吉村寅太郎肖像画 右:寅太郎寓居跡説明板
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土佐四天王のなかでは、早くに亡くなったためか、
一般的な知名度としては低めの、吉村寅太郎です。
ですが、土佐藩士の中で、
幕末に一番最初に脱藩したのはこの寅太郎でした。
龍馬は、寅太郎に次いで2番目に脱藩しています。
脱藩後、尊王攘夷派の薩摩藩士の討幕挙兵を鎮撫するために、
同じ薩摩藩士が説得に来たものの応じなかったため
薩摩藩士同士の斬り合いになった寺田屋騒動の場にいたため、
土佐へ送還され、8ヶ月間牢獄に入っています。
そして釈放後の文久3(1863)年2月、また京へ上った寅太郎は、
半平太の隣に住まいを構えていますね。
その年の8月には、攘夷派の公卿中山忠光(なかやまただみつ)を
盟主として、「天誅組」を結成。
そして長州藩が、孝明天皇の大和行幸の詔を得ることに成功したのを受け、
寅太郎ら天誅組は、先鋒として大和(現:奈良)へ向かい、
8月17日に幕府天領の五条代官所を襲い、討幕の兵を挙げました。
ですが、その翌日、京では薩摩藩と会津藩が手を組み、
八月十八日の政変といわれるクーデターが起きました。
その日を境に長州側の公卿は失脚し、
長州藩は京から追放されることに…
孝明天皇の大和行幸の詔も撤回され、
天誅組は朝敵となり、大和で孤立してしまったんです。
その後も約1ヵ月幕府側と戦い続けましたが、
最後は、大和鷲家口で戦死しました。
歴史を今の時代から振り返ると、寅太郎らが決起したときは、
まだ機が熟していなかったんですね。
龍馬も故郷への手紙の中で、寅太郎ら天誅組の挙兵・戦死を
残念に思う気持ちを書いていますね。
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