三条実美の屋敷跡(現:梨木神社)
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三条実美(さんじょうさねとみ)は、
安政の大獄で謹慎処分となった三条実万(さんじょうさねつむ)を父に持ち
尊王攘夷の志の強い公家でした。
母は、土佐藩の第10代藩主、
山内豊策(やまのうちとよかず)の娘。
また、兄の三条公睦(さんじょうきんむつ)の妻も
土佐藩第15代藩主山内容堂(やまのうちようどう)の妹という
関係で、土佐藩とは少なからず縁があったんですね。
未亡人となった信受院(山内容堂の妹)に仕えるために
龍馬の初恋の相手といわれる平井加尾が京(現:京都)へ行き、
河原町の土佐藩邸に居たこともあるんですねえ^^
実美は、兄が早くに亡くなったため、
三条家を継ぐことになりました。
実美の父、実万は尊王愛国の精神が強く、
日米修好通商条約の天皇の許可を出すことに反対し、
また、将軍の後継ぎ問題では、
一橋慶喜(徳川慶喜)(ひとつばしよしのぶ(とくがわよしのぶ))を推したんですね。
彦根藩主の井伊直弼とは真逆の立場でした。
そのため井伊直弼が幕府で実権をにぎり、安政の大獄が起きると
実万は謹慎処分となってしまったんです。
そしてその年のうちに亡くなってしまいました。
その後、安政の大獄を引き起こした井伊直弼が暗殺され、
尊王攘夷派が息を吹き返し、佐幕派を追い落として
どんどん強くなっていきました。
実美は、父の遺志を継いで、
尊王攘夷派の公卿の中心的存在として活躍。
国事御用掛(こくじごようがかり)というのに任命されると、
尊王攘夷志士たちが、実美のもとへ殺到したそうです。
文久2(1862年)年後半から文久3年にかけては
尊王攘夷派たちにとって一番の盛り上がりを見せた時期でした。
ですが、過激になる尊王攘夷派の行動や
実美たちによって、自分の意志とは違う勅語(天皇の言葉)を
勝手に出されることに孝明天皇は、
だんだん嫌気をさしてくるんですよね。
そして、佐幕派の公卿に、
「自分の本心じゃないのに…」
と、愚痴るんです。
そこへ、薩摩藩と会津藩らが手を組んだ公武合体派が
「三条実美ら尊王攘夷派公卿と長州藩を追い払いましょう!」
と、孝明天皇にささやくわけですよ。
孝明天皇は、まんまと薩摩藩らの誘いに乗りました。
そしておきたのが八月十八日の政変といわれるクーデターです。
それによって、実美たちは、
前日までは天皇のそばで仕えていたはずのに
朝目覚めると、宮中へ参内することができなくなっていて、
朝廷から追われ、京から追い出されてしまうんです。
実美らにとっては、
何が何だかわからずに呆然としたことでしょうね^^;
長州藩邸跡
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実美らとともに、朝廷内で力を発揮していた
長州藩でしたが、八月十八日を境に
突然、御所の堺町御門の警備を外され、
長州(現:山口)へ戻らざるを得なくなりました。
そして、実美ら7人の公卿と一緒に長州へ向かったんです。
これが七卿落ち(しちきょうおち)といわれるものです。
三条実美と土佐藩士の接点
幕末の京における三条実美と、土佐の勤王志士の龍馬、
中岡慎太郎(なかおかしんたろう)、武市半平太(たけちはんぺいた)が
どんなふうにかかわっていたかというと…
龍馬は、この時期には実美と直接かかわってはいないようです。
このころの龍馬は、まだ幕末の風雲児といわれた龍馬ではなく、
海軍操練所をつくり、また蝦夷地(現:北海道)開拓計画を
模索していた頃で、他の尊王攘夷志士たちとは違う
独自路線を走っていたんですね^^
龍馬が実美と接するのは、
実美が長州へ行った後、さらに幕府の命令で
大宰府(現:福岡)で幽閉生活を送っているころです。
そして慶応元(1865)年5月には、龍馬は3度も実美らの元を訪れ、
薩摩藩と長州藩の和解について説いているんですね。
実美たちを追い落とした薩摩藩と
実美たちが信頼を寄せている長州藩が
手を組むということを受け入れるのは、
とても複雑な気持ちだったでしょうね^^;
中岡慎太郎も京時代ではなく、実美らが長州へ落ちたあと、
土佐を脱藩してから実美ら公卿の護衛をつとめています。
実美が京で一番力を持っていたころに通じていたのは、
土佐藩士の中では武市半平太ですね。
半平太も土佐藩の佐幕派を一掃して尊王攘夷派の上士で固め、
自分たち土佐勤王党が裏で糸を引いていたころだったので、
実美らや長州藩士たちと密に連絡をとりあっていたようです。
梨木神社について
梨木神社
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幕末当時、三条実美たち三条家の屋敷があった場所には、
現在は「梨木神社(なしのきじんじゃ)」があります。
この神社は、明治18(1885)年10月につくられ、
三条実万・実美親子が御祭神として祀られています。
また、梨木神社の湧水は、京都三名水のひとつとされているんです。
そして、境内には約500株もの萩が植えられている名所で、
別名「萩の宮」とも呼ばれていて、9月が見頃だそうですよ^^
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