現在、京都の河原町御池通りに面した京都ホテルオークラの
敷地内に、長州屋敷跡の石碑がひっそりと立っています。
この長州藩邸は、尊王攘夷派(そんのうじょういは)にとって
一大政治拠点となった、幕末史を語る上では、
重要な藩邸のひとつですね。
この長州藩邸へは、龍馬もよく来たことだろうと思われます。
龍馬は土佐藩を脱藩しているため、
自藩の藩邸に近寄ることはできなかったからです。
近寄れば、脱藩の犯罪人として捕まえられてしまうから。
長州藩は、尊王攘夷支持の藩だったので
脱藩浪士の多くが長州藩を頼りました。
龍馬も脱藩したときに向かったのが長州(現:山口)でした。
だから京(現:京都)に上ったとき、
特に浪士となった初期の頃の龍馬にとって
頼れる藩は、長州藩だったのかなあと思います。
尊王攘夷が大きく叫ばれ始めた頃、
尊王攘夷論が、強かったのが長州藩と薩摩藩でした。
でも薩摩藩は、文久3(1863)年5月におきた
姉小路公知(あねがこうじきんとも)暗殺に
薩摩藩士がかかわったとして
急速にその力を失っていきました。
それからの長州藩は、天皇の覚えもめでたく、
一時は尊王攘夷推進の藩として独走。
ですが、薩摩藩と会津藩が手を組み、
同じ年、八月十八日の政変で一夜にして長州藩は実権がなくなり、
京から追われてしまうことになります。
そして、元治元(1864)年7月19日の
禁門の変(蛤御門の変(はまぐりごもんのへん))で
幕府軍に敗れた後、自ら藩邸に火を放ったんです。
その火は、京都市中に燃え広がり、その火は数日間燃え続け、
「どんどん焼け」と呼ばれる大火になりました。
武士は、戦に負けて撤退するときには、
自分の城を燃やすというのが慣例だったんでしょうか?
だとしても、罪もない町の人々にとっては、
いい迷惑ですよね^^;
その2年後の慶応2(1865)年1月21日には、
龍馬や中岡慎太郎(なかおかしんたろう)たちの仲立によって
薩摩藩と長州藩は手を組むことを決め、薩長同盟が成立します。
そこから、表面上は幕府のお尋ね者のままですが
水面下では、長州の勢力は復活し、
薩長が中心となって倒幕、明治維新へと進むわけですね。
八月十八日の政変のあと、京都三条にある旅館の
池田屋に潜伏していた、長州藩を中心とした
尊王攘夷志士たちが、談合しているところを
新選組に襲撃されました。
その場にいた20数名のほとんどが
戦死もしくは捕らえられたのちに死亡。
その時に逃げのびた志士たちが目指したのが
長州藩邸だったんです。
でも、土佐浪士の望月亀弥太(もちづきかめやた)は
長州藩邸前まで来たものの、追手に追いつかれて自刃。
また同じく土佐藩浪士の野老山吾吉郎(ところやまごきちろう)は、
長州藩邸に逃げ切りましたが、
傷が深く結局藩邸内で自ら命を絶っています。
長州藩のなかの積極派の来島又兵衛(きじままたべえ)らは、
幕府側にいった孝明天皇を、再度長州陣営のものとし、
「長州藩主は無実!」と冤罪を天皇に訴えるため、
京に乗り込もうとしていました。
しかし穏便派の桂小五郎(かつらこごろう)らが
それを止めていたが、池田屋事件の報を受け、
積極派を止めることができなくなり、
軍をひきいて長州から京へと向かいます。
そして元治元(1864)年7月19日に京へ討ち入り、
京都御所の門、特に蛤御門での戦いがもっとも激しかったので、
この大事件は、「禁門の変」
または「蛤御門の変」といわれています。
最初は優勢だった長州軍も、薩摩軍が到着してからは、
劣勢になってついに壊滅。負けてしまいました。
その結果、朝敵となり京を追われただけでなく、
その後の幕府による第一次・第二次長州征伐に
つながっていくことになります。
そして、長州藩士が京へ潜伏しているのを見つけると
新選組や見廻組(みまわりぐみ)など幕府側の手で
今まで以上にいとも簡単に
斬り殺されていくことになるんですね。
桂小五郎は、蛤御門の変の戦いそのものには参加しておらず、
他の藩への説得や孝明天皇に直訴に向かっていましたが、
失敗に終わり、京から抜け出す機会を待ちながら
潜伏生活を送るんですね。
このころに恋仲の幾松(いくまつ)が、三条大橋の下に乞食姿で潜んでいた
小五郎に握り飯を落として、食事を運んだのは有名ですね。
京での潜伏も危うくなった小五郎は、
但馬出石(現:兵庫)へ逃げて潜伏。
その後、慶応元(1865)年4月にようやく長州に戻れたんですね^^
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